どうして私たちは、こんなに遠い?
息がかかるほど近くに、あなたはいるのに。

悔やむべくは、固体で生まれてきてしまったということ。

あなたと、同一でないということ。






香り
藤和と紅音・7







我が家の居間の三倍はあろうかという藤和(とうわ)の私室で、私は一人、ぽつんとソファーに座らされていた。
全く知識の無い私の目にも、室内に置かれたアンティーク調の家具が、高級品だということがわかる。
たとえば、私が落ち着かなく座っている、この猫足のソファーとか。
そんな、私にはまるっきり場違いな室内は、微かな甘い香りと、穏やかで優雅な空気に満たされていた。
藤和の家に来るのは、初めてのことではない。
初めてではないが、何だってこう毎回、落ち着かない気分になるんだろう。
まぁ確かに、生活の格差は、痛いほどあるのだが。
それとこれとは、あまり関係がない気がする。

「紅音(あかね)ちゃん、おまたせー!」

大きな扉を開いて、制服姿のままの藤和が顔を覗かせる。
私は何故だか、藤和の登場に必要以上に驚いて、それがばれないように、白々しくかなり間をおいてから、顔を上げた。

「別にそんなに急いで用意すること無いのに」
「えぇ?でも紅音ちゃん、俺の家で独りになるの怖いでしょ?」

私のそっけない言葉にも、にっこり笑って、藤和が言う。
その言葉に、私は内心、チッと舌打ちしていた。
藤和には悔しいほど、全てお見通しだ。
ソファの前に置かれたローテーブルに、銀色のトレイを乗せながら、藤和はまだニヤニヤ笑っている。
私は藤和をにらみつけた。
ここで意地を張ったところで、仕方が無い。
私ははっきり言って、藤和の家で一人にされるのは、怖い。
だいたい、一般家庭で生まれ育った私が、いきなりこんな豪華な部屋に通されて、優雅に過ごせるわけが無い。
藤和の家は広すぎる。
日本家屋とつくりが違いすぎるために、トイレに行くのだって道に迷う。
前に案内するという藤和を振り切って、一人でトイレに行ったら、案の定迷子になった。
しかも屋敷の中をうろついているところを、日本人ではないメイドさんに見つかって、日本語ではない言葉で大騒ぎされて、本気で泣きそうになった。
何で日本の屋敷で、日本人じゃないメイドさんなんか雇ってんだ!と怒ったら、母親が日本人でないいから、と説明された。
初耳だ。

「わかってんなら、さっさと帰ってこいよ」
「・・・・感じ悪いよ、紅音ちゃん」

無意識に声が出た。
藤和は笑顔のままそう言って、トレイに乗せられた、これもまた高級そうなティーポットを手に取った。
藤和が何かひとつ動作を起こすたびに、紅茶の甘いにおいがふわりと香る。
その微かな甘いにおいに、何だかめまいを覚えながら、私は黙って藤和の指を目で追った。
先日もらった紅茶の缶を、藤和に渡す。
藤和は慣れた様子で封を開け、茶漉しのようなものに、数量の葉をこぼした。

「甘い・・・」
「うん。紅音ちゃん、甘いの好きでしょ」

私の直感的な感想に、にっこり笑って藤和が顔を上げる。
お湯を注ぐと、その香りは一気に濃度を増した。
それでも香りは、しつこくなく、甘さは、私の鼻を優しくくすぐる。
先日、藤和に紅茶の缶をもらったとき、はっきり言って私は困った。
自慢じゃないが、我が家に存在する紅茶は、ペットボトルか、ティーパックだ。
葉っぱをもらっても、急須と湯飲みでは、どうも飲む気になれない。
それ以前に、私は紅茶の正しい淹れ方を知らなかった。
別にそこら辺容器に入れて煮出せばいいんだろうが、そんな適当なことでは、せっかくもらった紅茶が、台無しになってしまうような気がした。
多分、・・・いや、確実に、藤和にもらったこれは、損所そこらの店に並んでいるような安物ではない。
そして今日、そんな私を見かねたらしく、紅茶の淹れ方を実演するからと言われ、私は藤和の家に招かれた。

「はい、どうぞ」

藤和がお皿に乗せたティーカップを、私に差し出した。
私は素直に受け取り、まじまじとその澄み切った液体を眺める。

「毒とか入れてないよ?」
「知ってるよ」

私の様子に、藤和が意地の悪い顔をした。
私は強い口調で返して、恐る恐るカップに口をつけた。
猫舌なんてことがばれたら、またからかいのネタにされてしまう。

「ふーふーしてあげようか?」

私の隣に腰を下ろしながら、藤和が何気ない様子で私の顔を覗き込んでくる。
私はばれていたことの驚きと、予想外の至近距離に、思いっきりむせた。

「な・・・っ!ごほっ!ん・・・・っ!!」

むせながらも、無理やりしゃべろうとしたものだから、余計に苦しくなる。
息苦しさに、生理的な涙が浮かんできた。
藤和の手が、私の背中を撫でている。
大丈夫?という声が、耳のすぐ後ろに聞こえる。

そうか。

そこで、ようやく自覚した。
藤和の家に来るたびに、毎回落ち着かない気分、になる理由。
別にそれは、藤和のお金持ち過ぎるお家に、緊張しているわけではなくて。

「紅音ちゃん?」

ぜぇぜぇと肩で呼吸をしながら、黙り込む私に、不思議そうな声で藤和が呼ぶ。
自覚したところで、その理由は、状況の緩和には何の役にも立たなかった。
むしろ、余計に私の頭を混乱させる。
私は、そのまま勢いよく立ち上がった。
駄目だ。
無理だ。
耐えられない。

「帰る!」

きょとんとして私を見上げている藤和に、そう言い放って、私は早足で出口へ向かう。
あわてたように、藤和が立ち上がった気配がしたので、私は全力で走った。
が、間に合わなかった。

バンッ

大きな音がして、扉が閉まる。
私の背後から藤和の長い腕が伸びて、扉を押さえつけた。
私は息を詰めて硬直し、すぐ後ろにいる藤和の気配に、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。

「どうしたの、いきなり」

静かな、藤和の声。
自分の顔が見えてない私ですら、感覚で解るのだ。
藤和が察していないはずが無い。
私は何だかもうやけくそになって、真っ赤なまま振り返り、だいぶ高い位置にある藤和の顔をにらみつけた。

「うるさいな!急用!!帰るからどいて!!」
「そんな怖い顔しなくても、俺は紅音ちゃんが嫌がるようなことしないよ」

怒鳴りつける私に、あやすような声で言う。
やっぱり、ばれている。
私は羞恥心で、頭が真っ白になって、どうしていいのかわからなくなった。

「嫌がるようなことって・・・・」

何。

何故だか、涙が出そうになった。
藤和が、悲しそうな顔をした。
私の頭を撫でて、目を伏せた。

穏やかな空気に、紅茶の甘い香りが溶けてゆく。
その香りは、藤和の服や髪や肌に染み付いて、いつも私を穏やかにさせる。

あぁ、この人は。

なんて綺麗な人だろう。

藤和に押し付けた額から、とくとくと心臓の鼓動が伝わってくる。
藤和が、ほっとしたように息をついたのがわかった。

「・・・・・・・取り乱しました。すみません」
「・・・あのね、紅音ちゃん」

藤和が脱力したように、私の肩に体重を乗せてきた。
私は支えるような格好になって、扉に背中を押し付ける。
完全に退路を立てれたことに、少なからず私は動揺したが、暴れはしなかった。

「紅音ちゃんって、あんまり俺に興味ないでしょ」
「そんなこと、ないよ」
「そうかなぁ。俺の母親フランス人だってことも知らなかったし」

フランス人なのかよ。
ということは、この間のメイドさんもフランスの人なのだろうか。
どうりで言葉がわからなかったはずだ。
まぁ、ものすごいスピードで英語を話されても、聞き取れなかっただろうけど。

「しかも今の話、聞いてないし」
「え?何か言ってた?」
「感じ悪いよ、紅音ちゃん」

そう言って、藤和が私の腰に腕をまわす。
びっくりして顔を上げると、藤和が子供のような顔で微笑んだ。

「ねぇ、あの紅茶の名前、なんていうか教えてあげようか」

教えられたって、覚える自信が無いんですが。
眉間にしわを刻みながら、唇を噛む。
どくどくと心臓が、痛いぐらいに騒いでいる。


うつむく私に、これ以上望まないから、そばにて、と甘いあなたの声が囁いた。


どうして。

私たちは、こんなに遠い?
息がかかるほど近くに、あなたはいるのに。

悔やむべくは、固体で生まれてきてしまったということ。

あなたと、同一でないということ。




あなたを想うことがこんなに苦しいなら、いっそあなたの細胞であればよかったのに。



<了>