その笑顔の裏で、何を考えてる?
知ってるよ、その顔が、あなたの本当の顔じゃないなんて、とっくに。

 

 

 

落下速度
藤和と紅音・5

 

 

 

たまにふと、やってくる。
黒く濁った空気の渦。
なんと表現すればよいのか、よく解らない、落下の瞬間。
空気に混ざりこんで、目には見えないけれど確実に、視界を濁らせてゆく。
速度は意外にゆるい。
黒い不透明な谷底に、ゆったりゆったり、回りながら、弧を描きながら、落ちてゆく。

「雨が降りそうだね」

近くに居るはずなのに、遠い、藤和(とうわ)の声に顔を上げる。
藤和はいつもの笑顔を浮かべ、私の返答を待っている。

きっかけは、何だっただろう。
ふと、気が付いた時にはもう、足首を掴まれていた。
足先から、ねっとりと。
徐々に私の身体を飲み込んでゆく。

「そうだね」

短く、返す。
空気を切取るような、固い私の声。
藤和はまた笑った。
それは苦笑のカタチだった。

「何がおかしいの」

咄嗟に、声が出た。
いつもならば、気にも留めない、藤和の挑発。
飲み込まれる、私の足先にある黒い渦が、次第に藤和の方へも伸びてゆく。
いま、ここで。
藤和が私に触れてしまったら。
私が破裂して、形を失い、虜をなくした黒いものが、藤和を次の獲物に狙ってしまう。

「紅音(あかね)ちゃん、機嫌悪いね」

けれど、心配していた私の腕を、するりと避け、藤和が言った。
安心したのと同時に、絶望感と怒りが、ふつふつと足元で泡を焚いた。

「別に、いつもどおりだよ」

膝を抱えて座りなおす。

藤和は、触れて欲しくないと思って居た私の腕を、望みどおり振り払っただけ。
湿った空気がいくら冷たくても、それに腹を立てる筋合いはない。

藤和は私の隣に座ったまま、灰色の空を見上げていた。
電気はついているはずなのに、室内が暗い。
私の周囲の空気は更にゴポゴポと、不透明度を増してゆく。

 

藤和に非はない。
私以外のものに、非はない。

 

「紅音ちゃん、傘持って来た?」
「折りたたみ、ロッカーにあるよ」
「そっか。ちょっと期待したのに」
「・・・期待?私が傘を忘れて、藤和に入れて、ってお願いするの?」
「うん、よく解ったね」

にこーっと藤和が楽しそうに笑う。
藤和の思考回路なんて、単純すぎて、すぐに解るよ。
答えようとして、やめた。

 

その笑顔の裏で、何を考えてる?
知ってるよ、その顔が、あなたの本当の顔じゃないなんて、とっくに。

 

たとえばほら、さっき私の腕を、あんなに簡単に振り払ったのに。
今ではこうして、必死に私をつなぎとめようとしてる。

 

貴方はその笑顔の裏で、何を考えてる?
私はその笑顔の裏に、何を期待してる?

 


濁った私に触れて、貴方の純度が落ちる事を恐れてる。
でも逆に、心のどこかで、貴方も私と同じように汚れてしまえばいいと、思ってる。

私は汚い。
貴方の弱みに付け込んで、居場所を作ろうとしている。

ずるずると、落ちてゆく。
足元に広がる黒い渦の中に、体半分がのまれても、何故だろう、それ以上侵食が進まない。
隣で笑う、藤和は、笑いながら何を見ているのだろう。

もしかしたら藤和は、この黒いものの正体を、知っているのかもしれない。
この人は知っていて、飲まれる私の観察を楽しんで、ギリギリの位置で侵食を止めているのかもしれない。
私を形成する、感情のほとんどが、細胞レベルで思う。

 

 

黒いものよりもずっと強い、この支配者は、なんと残酷で愛しいのだろう。

 

 

「紅音ちゃん、雨、降ってきちゃったね」

残念そうに笑う藤和の横顔を眺めながら、ぞっとする。
それは恍惚とした、どろどろの感情だった。


<了>

恋に落ちる瞬間見える、汚いもの。自分自身。