……………a colorless child…

微かに湿った空気が纏わりついて気持ちが悪い。
ようやく雨が上がり、辿りついた宿舎には、見覚えの無い顔があった。
露骨な警戒を浮かべたまま睨みつけた青年は、バファム・ラインと名乗った。薄い茶色の髪と、それより幾らか濃い茶色の瞳をした青年だった。

「ブルー!!」

ラインの説明も聞き終わらない内に、部屋を飛び出したルゥークは、大声で叫びながら軍司令室の扉を開いていた。

「…何事だ」

予想した通り中にいた司令室の主、陸軍総司令官・ブルー・リンドウが顔を上げた。
突如乱入してきた少年の姿に、室内の空気が一瞬凍りつく。しかしそんな無礼な態度をとったルゥークに、平然と応答するブルーの態度に、部下たちは彼をしかりつける事も出来ない。

「何だよあいつ!バァンの代わりって!」

勢いのままにルゥークが怒鳴る。ブルーは微かに方眉を上げ、部屋に視線を巡らせた。
その場にいる部下たちは全部で八人。その中でも最も位の高い、軍隊長の統率を担当している男にブルーは目を止めた。

「は、」

軽く頷いて、男は他の七人に退室を命じた。

「…バファム・ラインとはもう顔を合わせた様だな」

窓際に置かれたデスクに位置を戻し、ブルーが口を開いた。その隣に控えている男は、部下たちが完全に部屋の外に出て行ったのを確認した上で、ブルーの言葉を補った。

「研修期間内での班は八人で構成する事が決められている。バァンが抜けた穴は、他の者で補う必要がある。バファム・ラインの配属されていた班は中途採用で人数が一人増えた。調整の為に班内で一番お前たちの班にふさわしいレベルの人間を選んで移動させた」

単調な口調で事の次第を簡潔に説明して行く。ルゥークは苦々しく男を睨みつけた。

「でも、代わりが来るなんて聞いてなかった」
「ルウィン・アーク、何をそんなに慌てている?」

ブルーはデスクに両肘をつき、静かな目でルゥークを見据えている。ルゥークはブルーに視線を戻すと、その目に浮かんでいた怒気を更に強めた。

「慌てる?慌ててなんかいない。あんたたちが勝手な事をしてくれたから、怒ってるだけだ」
「バァン・シーナ・グレンをアイスタン皇子のもとに置くよう言ったのは、お前だろう」
「俺が言ったのは移動だけだ」
「奴の仕事はアイスタン皇子の護衛だ。宿舎でのんびりと暮らしていては、疑われる危険性がある」

ブルーの瞳は、左右の色が違った。右は名前の通り深い青だが、左の瞳は灰色をしていた。以前の戦争で片目を失い、他人の目を入れているのだという。
左の視力は殆ど無い。だからブルーはいつも、微かに首を左に傾げてこちらを見てくる。

「…危険性…」

眉を寄せて繰り返す。ルゥークに向けて、窓際の男は再び事務的な声を出した。

「勘違いして貰っては困る。バァン・シーナ・グレンの移動は、飽くまで目的があっての事。貴様の個人的な感情に従っての事ではない」
「そんな事は知ってる。誰も仕返しだけであいつを陥れようなんて思ってないよ」
「では、何が不服なのだ」

男のつきつけるような言葉が、妙に腹立たしかった。

(役立たずの癖に)

いつも自分より強い気でいる。

「ルウィン・アーク」

男を睨みつけるルゥークの目が、冷たい色を宿した事を敏感に察知して、ブルーが両者に割って入った。男はまるで気付いた様子も無くブルーを振り返り、ルゥークは男に向けていた感情をそのままブルーへと移動させる。

「バァン・シーナ・グレンは危険だ」
「…何?」

唐突なブルーの言葉に、ルゥークが口調を強める。男は訳が解らないと言う風に、ブルーを見下ろしていた。

「お前は、バァン・シーナ・グレンに執着すればそれだけ、不安定になって行く」

ブルーの居抜くような目。片目だけでしかないはずなのに、声すら出せないほどの圧力を感じる。

「解っているのか、ルウィン・アーク。お前の力は、憎しみによって造られる。…バァン・シーナ・グレンは危険だ。アレのそばに居続ければ、いつかお前は使い物にならなくなる」
「…バァンは、そんなんじゃない」

じっとブルーを睨みつける目に、動揺の色が浮かび始める。ブルーは一瞬だけ見せた、少年の隙を見逃さなかった。

「お前は完璧な人形であれば良い」
「…っ!」

言葉にならない声が、ルゥークの喉を鳴らした。だがその動揺はすぐさま、先程より強い怒気で覆い隠される。

「お前は、我等の道具なのだからな」

少年に向けて、彼の一番嫌いな言葉をわざと選んだ。ブルーの思惑通り、ルゥークは隠そうともしない憎悪の感情をこちらに放つ。
窓際の男が、耐え切れず怯む。
これが、本物の殺意だ。

(十五の餓鬼が、良くぞ比処まで…)

デスクに肘を付いたまま、ブルーは静かにほくそえんだ。
実にルウィン・アークは、完璧な殺人人形だった。自分に反発しながらも、彼はブルーの意のままに動く。むしろ、望んだ以上の結果を以ってして。

「…俺は道具なんかじゃない」
「では、抗えば良い。我等をも凌ぐ力で、壊してみるか?」

ギリッとルゥークの歯が鳴る。ブルーは薄く笑ったままそれを観察していた。
彼の感情を操るのは容易い。プライドを突つき、憎悪を引き出してやれば良い。
人間の感情の中で、最も扱いやすく、行動を起こさせやすいのは、怒りや恐怖と言った負の感情だ。
ルゥークの力は、怒りから造られる。
彼が自分を憎んでいる限り、彼はここから逃げ出す事は出来ない。自分たちに刃向かう事もできない。

(これで良い)

薄い唇に笑みを浮かべたまま、ブルーは繰り返す。

(これで良い)

これで、この子供は逃げられなくなる。

「壊してやる…!全部だ!」

叫ぶルゥークの声は、強い憎しみの感情に満ちていた。

 

 

 


彼に初めて遭ったのは、森の中だった。

「はじめまして」

笑顔で右手を差し出し、握手を求めてくる。子供は首をかしげた。子供は、それが握手を求められていると言う仕草だと言う事も、握手の意味も知らない。

「バファム・ライン。その子供にかまうな」

茶髪の青年の向こうから、眼鏡をかけた神経質そうな男が言う。ラインと呼ばれた青年は振り返り、先程の子供と同じように首をかしげた。

「どうしてです?この子と仲良くするのが俺の仕事でしょう」
「お前はどうやら、言葉の意味を履き違えているらしいな」

中指で眼鏡をずり上げ、男は眉間に皺を寄せた。

「お前の仕事は『白の一』の監視だ。仲良くする、という単語は適切ではない」

見た目通りに神経質な言い回しで、青年を咎める。バファム・ラインはやれやれと頭を掻きながら、子供の姿を改めて観察し始めた。
線の細い身体つき。大きな瞳は、全てを見透かしているような悪寒を感じさせる。

「色の無い子供…か。それにしては真っ赤だね」

体にぴったりとした白の上下は、もうほとんどそれが白であったと解らないほど、返り血に汚れていた。

「今日は、何人殺してきたわけ?」

子供の顔に近づいて、笑う。しかし子供はまるで反応を示さず、じっとその顔を睨み返す。
人殺しの目を、よく冷たい氷のような目と表現するが、子供の目はそれとはおよそかけ離れたものだった。
冷たくも、暖かくも無い。純真無垢な、澄み切った瞳。
ただ、そこにはあるはずの感情が宿っていない。
氷などよりも冷たい恐怖が、ラインの背筋を駆け上がった。

「バファム・ライン!」

再び男が神経質な声を上げる。ラインは、はっと顔を上げ、知らないうちに伝い落ちていた汗をぬぐった。
掌がじっとりと湿っているのに、指先だけがやけに冷たい。
どうやら自分は、よほどこの子供に魅入られてしまったようだ。
手に汗を握ったまま、バファム・ラインは笑った。

(これが本物のアーヴィ・セル・リレイ)

遠い異国の単語。
今まで一度として忘れたことの無い響き。
それに出会うためだけに、今まで生きてきた。それが、この瞬間にようやく叶ったのだ。
狂気と混乱に満ちた記憶とともに、ラインはゆっくりと子供に手を差し出した。口元は引きつって、すでに笑っているようには見えない。
背後で男が神経質な声でまた何かを言っている。
子供はじっとラインの手を見ていた。

「ガルーヴァ・リア」

ラインは呟いた。
遠い異国の、もう使われる事も無くなった言葉。滅びた国の言葉。
また逢えたね、と。

 

 

 

人気の無い食堂と言うのは、なんだか物凄く違和感がある。
左手にはたき、右手に雑巾を持たされたルウィン・アークは、不機嫌の極みとでも言うような、膨れた表情をしていた。

「ほれ、さっさと片付けねば、また叱られてしまうぞ」

そんなルゥークに声をかけ、軍医のフェイ・リアンはバケツで雑巾をすすいでいる。

「何で俺が食堂の掃除なんか…」

眉間に深い皺を刻んだまま言うルゥーク。フェイは雑巾片手に立ち上がり、何を今更、と言う顔をした。

「お前が壊したのだろう、食堂」
「不可抗力だよ、あれは」
「無断外泊に無断欠勤。喧嘩はするし、公共物は壊す。上官に逆らってしかも反省の色無し。この間など、ブルー総司令の部屋にまで行ったそうではないか。本当に、お前は。フォローするガス・グレンの身にも成れと言うに」

腰に手を当て、余ったほうの手で指折り数える。フェイを一旦睨みつけ、ルゥークは大袈裟にため息をついた。

「うるさいなぁ。だいたい何でお前がここにいんだよ、鬱陶しい」
「それは、ほれ。ガス・グレンには、お前を安心して任せられる部下が、私の他に居なかったからであろう」

銀色の髪を揺らして上を振り仰ぎ、フェイは満足げに解説してくれる。ルゥークは半目になりながら、ハッと短く笑いを吐いた。

「それすッごい勘違い。な、上に自惚れすぎ」
「何が勘違いだと言うか」
「ガス・グレンが、何で俺なんかにそんな気を使うってんだよ。俺とあいつは、他人だぜ?」

淀みなく紡がれる拒絶の言葉に、一瞬フェイの顔が曇る。だがフェイはすぐさま首を横に振って、それを否定した。

「他人だから何だと言うのだ!ガス・グレンはそのように小さい事を、気にされるお方ではない!!」
「あーあー、もう…。いーよ、解った。お前とガス・グレンの話をしようとした俺が馬鹿だった」

フェイから顔をそむけ、ひらひらとやる気無く手を振るルゥーク。
本当にバァンといい、この男といい、どうしてガス・グレンと言う男に、そこまで心酔することができるのだろう。
ガス・グレンを天敵としか思っていないルゥークには、およそ理解の範疇を超えていた。

「まあいい。そんなことよりも掃除だ。ルゥーク、お前の罰なのだからな、サボったりでもしたら容赦なく、絞めるぞ」
「…何処をヨ」

フェイの一本抜けた脅しに呆れ顔をして、ルゥークは窓際に寄っていく。雑巾で窓でも拭いてやろうかと思ったその手が、不意に動きを止めた。窓に顔を近づけて、外の様子を伺う。そんなルゥークに、疑心満々にフェイが声をかけた。

「ルゥーク、窓の外までは掃除しろとは言われておらんぞ」

だがその声もまるでむなしく、窓を開けたルゥークは、何の躊躇も無くそこから体を投げ出した。

「あ!」

飛び降りたと言うかすでに、倒れこむような格好で窓の外へと姿を消したルゥークに、驚きと怒りを入り混ぜたような表情で叫ぶフェイ。危ない、と思うより早く、逃げられた、と思った自分がなんだか哀しかった。

「ルゥーク!」

窓から身を乗り出して、少年の名を呼ぶ。

「何」

もうすでに居ないだろうと思っていた相手の顔が、すぐその下にあり、正直フェイは悲鳴を上げんばかりに驚いた。

「何だお前!いきなり近いなぁ!!」

青い顔で後ずさり、威勢よろしく罵るフェイ。ルゥークはそんなフェイの反応に、あのまま逃げ出さなかった自分を、本気で呪った。

「いちいち煩いね、お前は。何だよ、居なかった方が良かったのかよ?」
「居なければ驚きはせんかっただろうが、…後で凄いよ?」

眉間にしわを寄せ、睨みつけるように言って、フェイはまた驚いた表情になる。ルゥークの腕の中に、茶色の毛並みをした子猫を見つけたからだ。

「どうしたのだ、その猫は」
「下の木にひっかかってたの。どっかから落ちたんだろーね」

と、ルゥークはそのまま窓から部屋の中に戻ってくる。彼の頭の上に乗せられた小さな子猫は、体を震わせてにゃぁ、と弱弱しい声を出した。

「しかも怪我してやんの。相当抜けてるね、こいつ。猫のくせに」

首を揺らしながら、しがみ付いてくる猫をからかうルゥーク。苦笑を浮かべ、顔の前にずり落ちてきた猫の前足を指さした。

「これ。何か巻いてやったほうが良いかな」

見れば、そこには木の幹で傷付けたと思われる切り傷が走っている。フェイは自分の医療鞄を無断で開けるルゥークを、咎める事も無く、じっとその姿を眺めていた。
暖かい日差しの溶け込む穏やかな場所で、猫と戯れるその姿は、ただの少年と何の違いも無い。
それを痛感したフェイは、無意識のうちに、やはり、と呟いていた。
彼の声を聞きつけ、猫の足に包帯を巻きつける手はそのままに、ルゥークはフェイを振り返る。フェイは静かに、言葉を続けた。

「やはりお前は、人を殺めるよりも、生かす仕事の方が似合っているよ」

どれだけその言葉が、ルウィン・アークの神経を逆なでするかなどと言う事は、まるで考えもせずに。

 

 

 

アーヴィ・セル・リレイ。

遠い異国の言葉。

もう無い国の言葉。

その国を壊した言葉。

ガルーヴァ・リア・アーヴィ・セル・リレイ…。

 

 

――――――――――――また逢えたね、色の無い子供たち。

 


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