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冬の気配に気が付いたのは、そんな事がきっかけで。
「イタ」
誰もいない書庫で、一人本の整理にあたっていた雅は、ぴりりとした唇の痛みに思わず声をあげていた。
痛みの箇所を指で触れると生暖かい血液が付着する。
切れてしまったようだ。
「・・・ふむ」
何とはなしに呟いて、今度は舌先で触れる。
生きている味がした。
一頻り舐めたあと、雅はその作業にも飽きたのか、両手に抱えた厚い装丁の本を、また丁寧に棚へと納めてゆく。
誇りの匂いのする薄暗い書庫には彼以外の人間は居ない。
色のついたガラスをはめ込んだ窓から差し込む光が、微かに変化を見せ、日が夕闇に近いことを教えてくれる。
「・・・今日も、来なかったな・・・」
脚立の上に腰掛けて、作業の手を止める。
穏やかな午後。
数え切れぬ量の書物は、その昔この国の王が、世界中から買い揃えたものだという。
万国の言葉に精通する国王陛下の好奇心は止まる事を知らず、今や王宮内には、至る所に書室が設けらている。
しかしそれでも納まりきらない本たちを、国王は泣く泣くこうして新しく建設された書庫に納めた。
そして国王同様、様々な国の言葉、とりわけ古代語に詳しい雅は、その点で国王陛下とうまが合い、めでたくこの書庫および、書物の無料貸し出しの、全ての管理をまかされることとなったのだ。
「・・・この国の人は本を読むのが嫌いなのかなぁ」
ずっと長い間たった一つの部屋の中で生活を強いられてきた雅にとって、いろんな世界を見せてくれる本は、かけがえのないものだった。
けれど、この書庫を任されてからこっち、此処に訪れるものは雅の世話を焼きにくる男と、掃除を手伝ってくれる侍女の二人だけしか居ない。
無意識に、舌先で唇をなぞる。
微かな抵抗を感じ、傷が未だ癒えてないことを知る。
「・・・寂しいね」
頬杖を付き、独り言。
けれどふるると、空気は答えた。
誰かの愛情をもって使い古されたものには、何と限らず魂が宿る。
だがそれが見えるのはごく一部の人間しか居ない。
いや、人というべきではないだろう。
「お前たちも、このまま色褪せて、捨てられてしまうんだね」
つ、と目を細める。色の白いまぶた。
雅は美しい。
人のそれではありえない、完璧なる形。
その造形は、月の女神すら愛した。
雅は万物に愛されるために生まれた天使。
自らの愛を注ぐためだけに、月の女神が生み出した、人に在らざる者だった。
「・・・僕と、同じだね」
かさかさの唇は、それでも綺麗な珊瑚色に色づいて。
埃をかぶった黒髪は、午後の光を眩いくらいに反射する。
けれど、愛してくれたあの人は、もう居ない。
午後の空に、うすぼんやりと白い月の陰が浮いている。
月の女神はあの日、自分の前から完全に姿を消した。
雅の生まれ育った国は、このマゼンダ王国より遥か西に存在していた。
年間を通して気候は穏やかで、常春の楽園として知られていた。
「雅、寒いのか?」
雅は書庫の中二階に置かれている長椅子から立ち上がり、入口付近でそう声をかけてきた男の顔を見下ろした。
ブロンドの髪と、色の濃い緑色の瞳をしたその男は、男というより、少年と表現した方が自然なほど、幼い顔をしている。
しかしそんな彼も、今年で15歳。
マゼンダ王国の慣わしでは、彼はもう立派な成人男性だ。
「寒い。痛いし、冬って気分が悪い」
「・・・・よくわかんねーけど。降りて来いよ、帰ろうぜ」
雅が眉を寄せていつもの不機嫌な顔を作る。
眼下の男は少し首を傾げただけで、そんな雅の横柄な態度を慣れた様子で聞き流した。
「クリフ、今度ここにベッド運んでよ。いちいち家に帰るの面倒だから」
「こんな埃っぽい所に住む気かよ。喉やられるぞ。それでなくたってお前、体弱いのに」
「・・・君さ、僕が年上だって知ってるよね?口の利き方が生意気だよ」
再び長椅子に腰を下ろして、雅が胸の前で腕を組む。
どうやらご機嫌が優れない様子の彼に、クリフは溜息をつきつつ、ゆるいカーブを描く階段を上り始めた。
書庫と言っても、元々国王陛下のために建てられた建物だけあって、階段の手すりや雅のいる中二階、長椅子の背後にある大きな明り取りの窓に至るまで、造形は細やかで、美しく洗練されている。
まるでそれは、いずれ雅がこの書庫の番人になることを見越して作られたような、完璧さだった。
「着ろよ、風邪引くから」
長椅子の隣に立って、雅の外套を差し出す。
雅はいまだ不機嫌な顔のまま、クリフの顔を見上げて言った。
「毎日毎日、迎えに来なくたっていいよ。一人で帰れる」
「一人歩きは危険だから、迎えに行くように言われてるだけだ。好きで来てんじゃねェよ」
雅の言い草に、クリフの我慢も、そろそろ限界だった。
眉間にしわを寄せ、雅に冷たく言い放つ。
すると雅は一瞬驚いたように目を見開いて、それからすぐに、更に不機嫌な顔になって、勢いよく立ち上がった。
雅の動作に、丈の長い白い洋服が、さらりと床に流れる。
大きな藍色の両目で睨まれて、クリフは少したじろいだ。
いくら見慣れているとは言え、美しく整いすぎたその顔で睨みつけられるのは、正直怖い。
「だったら来るな!バカ!!」
雅の声が、耳を劈く。
クリフは咄嗟に腕で顔を庇ったが、間に合わなかった。
冷たい風のようなものが、クリフの頬を吹き抜けていく。
それは瞬く間に熱に変わり、ぽたぽたと赤い血を滴らせ始める。
「・・・ぁ、」
雅の口から、不完全な声が漏れる。
クリフはチッと舌打ちした。
「お前、魔法使うなって、バァンに言われてるだろ」
手の甲で血をぬぐいながら、クリフが低い声を出した。
人にあらざるものの証は、その完璧な容姿だけではなかった。
雅の言葉には、人にはない『力』がある。
雅がその声に、心を込めて言葉を発すれば、それは相手を傷つける刃にも姿をかえる。
雅の力を知った人はそれを、俗語で『魔法』と表現した。
「うるさい。人間などに、指図をされる覚えはない」
口調を強めて、雅が固い声を出した。
突き放すような言葉だったが、クリフの身体にそれ以上の傷は増えなかった。
見れば、雅の唇が微かに色を失っている。
それはきっと、寒さばかりのせいではない。
「雅、」
クリフが何か言い出そうと、名前を呼んだ。
しかし雅は、クリフの言葉に耳を貸す様子もなく、さっさと彼の前を通り過ぎていく。
クリフの差し出すマントにも、目もくれない。
「勝手にしろ!」
階段を下りていく雅の後姿に、クリフが怒鳴った。
午後からの冷え込みは徐々に激しくなり、空には不機嫌そうな雲が広がり始めている。
「こりゃぁ一雨来るなー」
カーテンをめくり、すっかり暗くなった空を見上げて、ルウィン・アークが言った。
部屋の中で、ミルクの入れすぎでほとんど白く変色してしまったコーヒーを啜りながら、クリフ・ヴァロウが罰の悪そうな顔をする。
「喧嘩とか、ガキじゃねぇんだから、やめなさいよ」
そんなクリフの様子に溜息をつきつつ、ルゥークがソファに戻ってくる。
クリフは顔をゆがめたまま、叱られた子供のような弁解をした。
「俺のせいじゃねぇもん、あいつが勝手に怒ってどっか行っちまったんだよ」
「何のためのお迎えだと思ってんの?」
「だって!雅が来なくていいって・・・・・」
「認識甘すぎ!お前も雅も、もっと危機感を持ちなさい」
ルゥークの冷静な声に、もごもごと口篭るクリフ。
クリフの額を軽く叩いて、ルゥークが立ち上がった。
ルゥークにならって振り向けば、雅とよく似た顔をした男が、部屋に入ってくるところだった。
「おかえり、バァン。この通りクリフは怒られる準備はできてますんで、存分にどうぞ」
男に手を振って、ルゥークがおどけて見せる。
クリフは驚いたようにルゥークを見上げ、まるっきり子供な、泣き出しそうな表情を浮かべた。
「何だよ、俺悪くねーって!!」
「雅が迷子になって、どっかの変態に酷い事されたら、お前のせいだからね」
「ど、どっかの変態!?」
さらりと言うルゥークに、青い顔をしてクリフが勢いよく立ち上がる。
どうやらこの子供にとっては、衝撃の発言だったらしい。
しかし、雅のあの容姿にのぼせ上がり、邪な欲望を抱く馬鹿者は、なにも女だけではない。
「落ち着け」
泣き出しそうな顔でこちらに助けを求めてくるクリフに、それだけ言ってバァンが向かいのソファに腰をおろした。
一人がけのそのソファの上で、足を組み、窓の外に視線を投げる。
クリフはバァンの落ち着き払った態度に、何の権利か、腹を立てた。
「何のんびりしてんだよ!!雅になんかあったら、どーすんだ!!」
バァンに詰め寄るクリフを、ルゥークが慌てて後から羽交い絞めにする。
勢いで投げ出されたカップが、床で派手な音を立てる。
ミルクで薄められたコーヒーが、絨毯にしみを作った。
「落ち着け、雅の足では、そう遠くには行けない」
「だから!どっかの変態が!!」
「連れ去ろうとでもすれば、ただでは済まないだろうな」
ソファの肘掛に頬杖を付いて、バァンが言った。
それでようやく、クリフの動きが止まる。
先ほど雅につけられた頬の傷を思い出し、バァンの台詞に納得する。
雅にうかつに手を出せば、この程度の傷ではすまない。
「・・・・・どっかの変態に酷い事なんか、されるはずねーじゃんか」
背後のルゥークを睨みつけ、ほっとしたような、拗ねたような顔をするクリフ。
窓の外を見ていたバァンが、何かを見つけたように、ようやく立ち上がった。
日の完全に沈んだ空から、ちらちらと白いものが舞い落ちてくる。
雅は一瞬目を疑ったが、掌の上で溶けて消えるそれを見て、それが昔本で読んだ『雪』だという事に気付き、目を細めた。
「・・・・雪、か。始めて見たな」
余った掌も広げて、舞い降りてくる雪を受け止める。
雪に向かって、雅は静かに息を吹きかけた。
白い粉雪はふわふわと向きを変え、それからゆっくり地面に消えてゆく。
「・・・ふむ、」
その様子に、雅は素直に感動した。
それから衣服が汚れるのも構わず、地面に座り込み、傍らの石を拾い上げる。
両手で包んで、ころころとこねるように回す。
「起きなさい」
雅が囁くと、石は静かに震え、目を覚ました。
人の目には見えない、微かな光が漏れ出して、それがゆっくりと石から小さな人の形に姿を換える。
雅は頭に描いた妖精の姿を石に教え、石に宿る生命がそれに答えた。
石くれになって地面に転がるまで、この石には様々な姿があった。
それの最初が、空気中に散在する、『生命体』だ。
人はそれを俗語で『妖精』と呼ぶ。
(雅様、お一人ですか?)
耳に語りかける声ではなく、脳に直接響く声で、妖精が微笑んだ。
「独りだよ」
(冷たい手を為さっていますね。どこか身体を暖める場所に行きましょう)
「どこに行こうか?」
(雅様のお家はどちらです?)
「さぁ、どこだろう」
(では向こうへ行きましょう)
雅の返事に、妖精がふわりと浮かび上がる。
舞い散る雪の中、それが指さしたのは遠くにある町の明かりだった。
あそこへ行けば、きっと暖かい洋服も食べ物もあるだろう。
雅は微かに笑った。
それから乱暴に、妖精に掴みかかった。
妖精は雅の白い掌に握り潰され、もとの石くれに戻った。
「駄目だよ。あそこは、人間の住む所だ」
言って、道端にそっと石を戻す。
雅は立ち上がった。
上を見上げ、徐々に激しくなる雪の粒を眺めた。
美しいと思う。
けれど、痛みを伴って指先を冷やし始めた雪の感触に、だんだんと心細くなる。
雅は人ではない。
だから凍えて死ぬことは、ないだろう。
「・・・・・・・約束、か」
ふらりと歩き始める。
雅の黒い髪に乗っていた溶け切らない雪が、ふわふわと空気中を舞った。
自分と同じ瞳をした男と、そう言えばそんな約束をした記憶がある。
人の中で暮すために、人として振舞うように。
人が持たないものは、使わぬように。
(お前、魔法使うなって、バァンに言われてるだろ)
頬の傷を押さえて、クリフが言った。
その鮮やかな血の色に、体の深い部分で、何かが震えた。
約束は、このためだったのだと、その感覚に再認識させられた。
自分の『力』は、簡単に人を傷つける。
人を傷つけ、己まで、傷つける。
「・・・・・・・でも、無理だと思う」
それを危惧して、雅に約束を求めた男の、優しさを思い出す。
けれど、それは無駄な事だ。
所詮自分は、人ではない。
ふらふらと当てもなく足を進めた。
雅はゆっくり笑った。
「ごめんね」
誰に対する謝罪であったか、自分ですらわからない。
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