雪の記憶

思いつく限りの場所を回りきり、クリフは噴出す汗を拭い取る。
雪は徐々に激しさを増し、視界のほとんどが白くけぶっている。

(寒がりのくせに!あのバカ!)

クリフは胸中で吐き捨てた。
それから顔を上げ、再び走り出す。
雅の態度に腹を立てて、突き放すような事を言った時、雅は傷付いた顔をした。
その後クリフに怪我をさせたことに、雅は震えて何かを言いかけた。

「くそー!!」

走りながら、溜まらず叫んでいた。
自分が幼かったばっかりに、それに気付いていながら、怒りに任せて見ないふりをした。
ずっといっしょに居て、雅の性格など、とうに知っていたはずなのに。
風が、冷たい雪を伴って顔に吹き付けてくる。
クリフは目を閉じて、それでも走り続けた。
なぜが目頭が熱いのは、雪が目にしみたせいではないのだろう。
情けない自分に、怒りにも似た感情が、腹の中で渦を巻いている。

ガッ

突然、クリフの足に何かが巻きついてくる。
驚く暇もなく地面を転がり落ちたクリフは、見覚えのある大きな木を見つけ、慌てて飛び起きた。
滅茶苦茶に走っているうちに、いつの間にか王宮の敷地を出てしまっていたようだ。
雅が王宮の外に出る事は滅多にない。
外を知らない雅が、こんな場所まで来ることはまずないだろう。
そのまま王宮に戻ろうとしたクリフが、勢いよく立ち上がる。
その瞬間、

ズルッ

雪に濡れ、滑りやすくなった草に足をとられた。

「おぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおお!?」

元気な悲鳴を上げて、クリフが急斜面を転げ落ちていく。
体制を立て直そうと抵抗するが、転がる勢いに負けて、上手く行かない。
クリフは転げ落ちながら、眼下に迫り来る薄暗い岩場に、青ざめた。
このまま行けば、草木のない岩場に出る。
その先は、崖だった。

「っあぁああああああああ!!ありえねー!!こんな死に方嫌だー!!」

滅茶苦茶に叫んで、腰に挿してある剣の柄ををどうにか掴む。
短く息を吐いて、奥歯を噛んだ。

ザンッ

鋭い音を立てて、剣先が大きな岩に突き刺さった。
それでようやく、回転が止まる。
予想以上の速度と回転数に、三半規管が追いつかず、目の前がクラクラと揺れる。
船酔いのような感覚の中、クリフの耳が、確かにその声を拾い取った。

 

 

威勢の良い悲鳴と共に、何かがこちらに迫ってきている。
その声は、聞き覚えがあった。
しかし悲鳴がやみ、その人影は暫くしても声を発する様子がない。
雅は不安になって、恐る恐る上へ向かって声をかけた。

「・・・クリフ・・・?」
「うぉ!?怖!雅!?」

その声を聞きつけ、遥か上空の岩場で、人影が大袈裟に驚きを表現した。
雪に邪魔されて良く見えないが、どうやらあの幼い人影は、クリフに間違いなさそうだ。

「何やってんだよ、雅!大丈夫か!?」

白くけぶった視界の向こうから、クリフの元気な声が名前を呼んだ。
答えようと立ち上がった雅は、右足に走った激痛に、声にならない悲鳴を上げてうずくまる。
普段からあまり外に出ない雅には、怪我をするという経験がほとんどない。
白かった右足首が、赤黒く不気味な色に変色している。
雅は珍しく、パニックになって叫んだ。

「クリフ!大丈夫じゃない!!これ何ー!?」
「何だ?これってー!!何かあったのか!?」

聞きなれない雅の悲鳴に、クリフも慌てて大声を出す。
痛みと恐怖で訳がわからなくなる。
雅は完全に冷静さを失って、滅茶苦茶に叫んだ。

「もーやだー!!帰るー!!!」
「落ち着け!!今そっち行くから!」

そう言って、崖の上の人影がふっと消える。
雅は藍色の瞳を見開いて、泣きそうな顔になった。
置いていかれたと思って、痛みも忘れて立ち上がる。

「クリフ!?どこ!?」

岩の壁に両手をついて、クリフの名前を呼ぶ。
しかし、返答はない。
雪の冷たさが、足の先から這い上がり、全身を凍らせた。

「・・・・・ぅ・・・」

喉の奥から、恐怖につられて泣き声が登ってくる。
今度こそ本気で泣きそうになった瞬間、ガラガラと派手な音を立てて、クリフが岩山から転げ落ちてきた。
クリフは全身泥だらけになりながら立ち上がり、唖然とこちらを見下ろしている雅に、急いで駆け寄った。

「雅!どうした!?何があった!?」

雅の腕を捕まえて、クリフが言う。
雅はその場にへなへなと崩れ落ち、驚いて顔を近づけてくるクリフを見上げた。

「足が痛い」
「・・・・・・・・・・・足?」

雅の返答に、クリフの顔が引きつる。
それからまじまじと雅の足を確認して、頭を抱え込んだ。
なぜか笑えてくるのは、楽しいからではない。

「・・・クリフ?」

黙り込んでしまった少年に、雅が首を傾げる。
クリフはガバッと顔を上げ、雅の右足を掴んで持ち上げた。
反動で、雅が後ろに転がる。

「たかが捻挫で大騒ぎしてんじゃねぇよ!!お前は!!」
「痛い!!触るな!!」
「何だその言い草は!あんな声出しやがって!俺がどれだけ心配したと思ってんだよ!!」
「離せってば!本当に痛いんだよ!!たかが捻挫って!そっちこそ、その言い草は何だよ!!」
「な・・ッ!俺がどんな思いでこんな所まできたか、解ってんのか!?お前が大騒ぎするから、救助呼ぶ前に降りてきちまったんだぞ!?どーやって登るんだよ!こんな崖!!」

雅の上に馬乗りになって、既に半泣きで叫ぶクリフ。
クリフの言葉に、雅は足の痛いのも忘れて、動きを止めた。

「君・・・、今、何て言った?」

腹の上でクリフが目に涙をためて睨みつけてくる。
雅はそこで、ようやく冷静になって溜息をついた。

「この!バカ!!」

雅の声に、突風が起こった。
雪を伴って吹き付けてきた風は、クリフの幼い身体を簡単に吹き飛ばす。
地面を二三回転がって起き上がったクリフは、それでも怒りの収まらない顔で、泣きながら叫んだ。

「バカッてなんだよ!そんな言い方する権利、お前にあんのかよ!!」
「仮にも成人した男が・・・!しかも軍人が!!何の考えもなしにこんな所に来て、どうすんだよ!?そんなのは助けとは言わないの!ただのバカって言うんだよ!!」
「・・・・・ッ!!」

雅の言葉に、クリフが両目を見開いて絶句した。
それから力なく地面に座り込み、肩を振るわせ始める。
どうやら、本気で泣き出してしまったらしい。
クリフの大きな目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出している。

「・・・・・泣きたいのはこっちだよ」

頭を抱えて力なくしゃがみこみ、雅が憔悴しきった声で呟いた。

 

 

雪は止む気配を見せず、むしろ激しくなってきていた。
クリフはようやく泣き止んで、膨れたまま雅を睨みつけている。
雅はそんなクリフの視線に気がついて、眉間にしわをよせ不機嫌な顔になった。

「なんだよ」

冷たい風が、岩間を抜けて吹き付けてくる。
徐々に雪に覆われ白くなっていく地面に、座り込んでいることすら辛い。
クリフは唇を噛んで立ち上がった。
雅の前まで移動して、冷えて色を失っている顔をじっと見下ろす。
雅はクリフの行動の意味が解らず、更に不機嫌な顔になった。
女の悲鳴のような風の音。
洋服は既に湿って、寒さを防ぐ役割を担っていない。

「こっち来い」

憤然とした態度で、クリフが言った。

「・・・はぁ?」

むっとして、雅が返す。
それ以上何も言わないクリフに、鼻を鳴らして嫌味な笑いを吐くと、雅はクリフから顔をそむけてしまった。
その動作で、雅の黒い髪から白い雪が、滑り落ちる。
クリフは悔しさをぐっと我慢して、雅の前に座ると、乱暴に彼の肩を引き寄せた。

「な!?何すんだよ!?気色悪い!」
「うるせぇ!俺だって好きでやってんじゃねーよ!!」

言いながら、雅の体をがっちりと抱きこむ。
クリフの胸に頬をつけ、その暖かさを確認した所で、ようやく雅はおとなしくなった。
寒さに、既に足の痛みは麻痺してしまっていた。
岩場に囲まれ、しかも、雪を遮るものも無い。
素手で崖を登る事が不可能なら、こうして互いに身体を温めあい、少しでも体力を温存して、救助を待つほかない。

「・・・・もう暴れないから、少し緩めてくれるかな。苦しい」

静かな声に戻って、雅が言う。
クリフは素直に腕の力を緩めた。

「髪の毛、泥だらけだね」

そう言いながら、クリフの前髪に触れる。
水分は冷気に痛いほど冷やされてしまっている。
微かに震える幼い身体を逆に支えるようにして、雅はクリフの頭を引き寄せた。
思った以上に小さなクリフの頭が、雅の肩にもたれかかる。
人の体温というものが、これほど暖かいとは、知らなかった。

「・・・・雅、」

俯いたまま、クリフが言った。
雅もそのままの体制で、頷くようにしてその続きを促す。
クリフの声は、何故だかまた泣き出しそうに震えている。

「ごめん、雅。・・・・・ごめん」

ぎゅっと手を握って、クリフが搾り出す。
雅は苦しくなって、何か言おうと口を動かした。
けれど上手い言葉が浮かんでこない。
たった独りで雪の中を歩いていた自分を思い出して、肩が震えた。
孤独に押しつぶされそうになって、それでもそこから先に進む事に怯えて、ただ立ち尽くしていた自分を思い出して、泣きそうになった。
違うからと理由をつけて、諦めた。
無理だと決め付けて、約束を破った。
自分はこんなにも。
こんなにも、人の体温を求めていたのに。

「・・・・どうしたらいいのか、わかんない・・・・」

ようやく声を吐いて、クリフの手をぎゅっと握り返す。
溢れ出しそうな感情が、なんであるのかわからない。
それを、どうやって伝えればいいのかわからない。
ただ、凍えているはずの身体が、内側から溶け出して、暖かになっていく。
クリフは少し笑ったようだった。
そして二人は手を握ったまま、安堵したように、ゆっくり息をついた。

 

 


「ミイラ取りがミイラ」

荒れ狂う吹雪の中、腕を組んで金髪の男が呟いた。
その後ろで、バァン・シーナ・グレンが微かに眉を寄せる。

「無駄口を利いてる暇があったら、手伝え」
「・・・まったく、手間のかかる・・・」

岩場に、松明の炎が揺れている。
数名の軍服姿の男達が、何事か騒ぎながら崖の下を覗き込んでいた。
木に縛り付けたロープを腰に巻いて、そのうちの一人が、崖下の少年達の救助に向かう。
ルウィン・アークは適当に火の番でもしようかと、暖かい所に移動した。

「クリフも頭悪いよなー、何で自分まで落ちてっちゃうかなー」

姿を消した雅とクリフが発見されたのは、今から半刻ほど前のことだった。
雅が居なくなった時間から考えると、既にかなりの時間が経過している。
崖下で、言葉もなくうずくまっている所を見ると、かなり憔悴している様子だ。

「おおかた、雅が大騒ぎでもしたんだろう」

部下の男が、崖下に到着する。
まず先に、雅に手を差し出すのが見えた。

「大騒ぎされたって、何の考えもなく降りてっちゃ駄目だろ。そう言うの救助とは言わないよ、ただの馬鹿」
「先にクリフを連れて来い」

後ろでぶつくさ言っているルゥークの言葉を聞き流して、バァンが崖下に声をかける。
ぐったりと力なく雅にもたれかかっているクリフには、どうやら意識がない。
雅はバァンの声を聞いて、素直に男にクリフを連れて上がるよう促した。

「何?気絶してんの?」

バァンの横から同じように下を覗き込んで、ルゥークが少し真剣な顔になって眉を寄せる。

「いや、泣き疲れて寝てる」
「・・・・・・・・・・・・ほっとけば?」

バァンの返答に、ルゥークはがっくり項垂れた。
少しでも本気で心配してしまった自分が情けない。

「そう言うな、あいつはあいつなりに、頑張ってるんだから」
「頑張ってりゃイイってモンでも無いでしょ」
「いや、アレでいいんだ。雅は、救われた」

崖下を覗き込んだまま、バァンが言った。
その穏やかな声は、吹雪に危うくかき消されてしまう所であったが、ルゥークは少し驚いたような顔になって、バァンを見た。
珍しく、笑顔の友人がそこにいる。

「バァン様ー!クリフが手を離しません!」

崖下で、部下が声を張り上げる。
しっかりとつながれたままの手を見下ろして、雅は微かに笑ったように見えた。
雅は普段笑わない。
いつも不機嫌な顔をして、世の中を睨みつけている。
しかしそれは、別に雅が他人に腹を立てているからではない。
あの不器用な少年は、拒絶される事を怯えているだけなのだ。
人と違うと思い込んで、人から迫害される事を、恐れているだけなのだ。
バァンはそんな二人の様子を見下ろし、一つ溜息をついた。
クリフは、きっと本能的なところで、そんな雅に気がついていたんだろう。
手をつないだまま眠りこけているクリフを眺める雅は、嬉しそうだ。

「殴って起こせ」

冷静なバァンの声にびっくりして雅が顔を上げる。
それからまたいつもの不機嫌な顔になって、雅が怒鳴った。

「助けに来るのが遅い!僕に何かあったら、どうするつもりだったんだよ!!」

高飛車な雅の台詞に、バァンは再び溜息をついていた。
それは、マゼンダに今年はじめて雪の降った日の事。


雅が始めて雪を見た日の記憶。


←前・次→